かつて東洋一と謳われた松坂屋大阪店(現・高島屋東別館)は、百貨店としての役割を終えた後も、いまだ威風堂々堺筋に立ち続けています。
11連アーチは圧巻の一言。テラコッタに覆われた見事なファサードです。
でも今回の主役はグルっと回ってその裏側。
凸凹でチグハグでボロボロ。壮麗な堺筋側とはまるで対極。
何故こんな摩訶不思議な造形になったのか。社史『松坂屋70年史』を参考に、その答えを探っていきたいと思います。
まずは、松坂屋大阪店の歴史から。
●明治8年、ゑびす屋呉服店を買収して大阪進出 ※明治末期に撤退
●大正12年、日本橋3丁目(現在地)に場所を移し、松坂屋大阪店として再出店。当時の店舗は木造3階建て
●昭和3年、本館の南隣に鉄筋コンクリート造の南館(延べ床4,480㎡)を増築
●昭和9年、本館の北隣に鉄筋コンクリート造の新館(延べ床20,218㎡)を増築
文章だけだと分かりづらいので、昭和9年の新築落成時の写真を1枚お借りします。
小さな木造本館を挟んで新館(左)と南館(右)がそびえます。現在11あるアーチがまだ4つだけなのが面白いですね。屋上は夏はプール、冬はスケートリンクが営業していました。
この写真3年後の昭和12年、本館を鉄筋コンクリート造に建て替え、さらに南館を上に増築して、3つの建物を一体化。間口104m、延べ床面積38,400㎡におよぶ“東洋一の百貨店”が完成。おおよそ現在の形になりました。
その歴史をふまえ、あらためて建物裏側を見てみましょう。
新館
本館
南館
完成時期による違いが一目瞭然です。重要なポイントは新館のみタイルに覆われていること。つまり新館は裏側工事も含めて完了していたのです。
対して、残り2館は素のまま。百貨店としてありえない姿は、さらなる増築までの一時的な状態だったのでしょう。社史には「地上7階地下3階建て、延べ床面積9,900㎡の規模」の増築にすぐ着手したとありました。しかし、計画は頓挫します。
原因は同じ年に勃発した日中戦争。そこからは戦時体制まっしぐら。地上と地下に1階ずつを増築した時点で工事は中止されました。
敷地内で「地上1階建て」はこの部分だけ。本来はこのラインで建物裏側が揃っていたと思われます。
Google Mapで見ると増築計画を想像しやすいですね。右から新館、本館、南館です。
新館と南館には同じような段々があります。当初から繋げる前提で建設が進められたのは間違いないでしょう。南館は、開口部の状況などから、もう少しだけ裏側に伸ばす計画だったかもしれません。
さて、お次は建物のその後。戦後から現在です。
幸いにも戦災をほとんど受けなかった松坂屋大阪店は、米軍による接収を経て、営業を再開。しかし、商業の中心は既に堺筋になく、市電、地下鉄といった交通網から取り残された立地だったこともあり、厳しい営業が続いたようです。裏側の増築計画もストップしたままでした。
さらに「希望がもたれた堺筋線の駅舎」が開設されなかったことが追い打ちとなり、昭和41年ついに閉店。天満橋に店を移しました。4年後、高島屋が建物を取得。東別館と名付けましたが、史料館や事務所用途、一部をテナントに貸し出すだけで、長らく積極的な活用はされませんでした。
そんな状況を変えたのが近年のインバウンド。2018年1月30日、高島屋は300室以上のアパートメントホテルを主用途とするリノベーション計画を発表します。
リノベーション後の高島屋東別館(画像:高島屋のプレスリリースより)
世界的ブランド「シタディーン」が2019年冬に開業を予定します。活用は喜ばしい。でも、イメージパースに描かれない裏側の今後が気になる…。ということで2018年8月、現地を見てきました。
足場が組まれ始め、資材搬入のためか、1階の一部が取り壊されていました。
敷地に空きスペースが殆どなく、装飾がある正面、側面はあまりイジれない。裏側は小綺麗になるだけでなく、車寄せの設置などなど何かしら大きな改造があるかもしれません。
今回の裏側ウラ話。推測を含みますし、謎な点も残ります。ただ、凸凹チグハグがただの手抜きではなく、増築過程を観察できる貴重な(マニア向け)遺産だったことが伝わったかと思います。
追記:リニューアル後の高島屋史料館には裏側を忠実に再現した模型が置かれました。