【廃墟探検】比叡山の叡山ホテル跡へ

比叡山の訪問目的はまず横川定光院(設計:増田友也)であって、叡山ホテル(設計:村野藤吾)跡地は“眺望が良ければいいなー”くらいの期待度。滞在時間は15分ほどと見込んでいました。

そんなピクニック気分は、巨大構造物が見えた瞬間にぶっとびます。叡山ホテルに少し詳しくなった今でこそ、これが地下階を兼ねた人工地盤であったとわかるのですが、訪問時の知識はレベル1。道なき道の先、戦時中に廃業したホテルの痕跡がこれほど色濃く残っているとは思いもしませんでした。

叡山ホテルは1937年、京都電灯が出資して建てたリゾートホテルです。抜群の眺望が話題を呼んだものの、太平洋戦争のあおりを受け1943年に閉館。営業期間(冬季は休業)はわずか6年ほどでした。

木造の本館棟・宿泊棟が移築となった一方で、コンクリート部分は放置。戦後になって遊園地「叡山パラダイス」のお化け屋敷等に転用されたようです。←訪問時に知らなくてよかった。

叡山パラダイス時代にくり抜いたであろう開口部からチェックイン。ホテル開業時の平面図によると、正面玄関はすぐ左隣ですが、廃材で塞がれ通行困難でした。

自然光が差し込み、緑が生い茂る階段まわり。これでも当時は内階段でした。コンクリートの地下階から木に包まれた地上階へ。空間がダイナミックに変化する劇的瞬間があったはずです。

階段踊り場から地下階を振り返ります。ホテル時代の同アングルの写真は、現状からは想像つかないほど優雅なもので、左のアールの出っ張りに椅子が置かれていました。右の部屋が玄関&受付です。

木造本館棟1階部分に出ました。四角い枠が、いま上がってきた階段です。山の少し高い場所にかつて庭園があり本館棟、カーブする宿泊棟を見下ろせました。

コンクリート部分の屋上(旧テラス)

「西方に大京都市を展望し、東方は琵琶湖を俯瞰する景観雄大、而も交通施設の完備せる比叡山頂にある日本民家風の叡山ホテル」

当時の絵葉書ではこのような説明が添えられます。「日本民家風」とはいえ村野藤吾らしいモダンな内外装になっており、評価は高かったようです。

敷地北側にもコンクリート建物が残存。

ボイラー室や電気室、厨房、従業員向けの部屋、倉庫などがあった区画と思われます。火災=即終了な立地。ゲストを木造でもてなしつつ、バックヤードは堅牢にということでしょう。

上が地上階で下が地下階(たぶん)。壁面が剥落してレンガが顔を覗かせていますね。

地下階へのスロープ?

何を支えていたんでしょう。

少し離れた場所にあるレンガの建物。「各便所は水洗式、屋外の浄化槽に接続」(出典:現代住宅  1933-1940 第3輯)の「浄化槽」と思われます。

いかがだったでしょう。ワクワクで探検しているようで、実際はハラハラしっぱなしでした。暗くて足を踏み入れなかったエリアもあるので要リベンジです。

さて、叡山ホテルの木造2棟は閉館後、比叡山から下界に移築されます。次回はその移築先の話。

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