雲仙普賢岳の噴火の恐ろしさを伝える災害遺構、旧大野木場小学校被災校舎。火砕流で炎上した状態のまま今も残されています。
校舎を見守るように聳える雲仙普賢岳も、1990年から始まった噴火活動ではその姿を一変させ、特に1991年6月3日の大火砕流では死者43人という未曾有の被害をもたらしました。
数百度の熱風ととともに時速100kmで流れ下ってくる火砕流。小学校の校庭で撮られた写真は絶望しかありませんが、火砕流は校舎裏手の水無川に沿って流れを変えたため、小学生や教員の犠牲者はゼロ。この800m先、いわゆる“定点”で大勢の方が亡くなられたのとは対照的でした。
猛烈な勢いで生き物のように迫ってくる火砕流の映像。当時、それへの理解が十分でなかったのも、被害が広がった一因といいます。
この火砕流を機に、大野木場小学校は別の場所に仮移転。3ヶ月後の9月15日、無人の校舎を再び火砕流が襲い、周辺の民家153棟ともども熱風で焼け落ちました。現在の姿はその時のものです。
熱でひしゃげた様々なものが熱風の凄まじさを物語ります。
3階の旧型テレビ。時代は止まったまま。
校舎入口です。
イチョウの木は被災したものの生き残り、多くの人に希望を与えました。
校舎解体という話もありながら、地元の要望で乗り切りました。焼けたままの状態で残されている施設は珍しく、インパクトもそれだけに大きいです。
雲仙普賢岳に関するTweetが少々バズったのですが「噴火を知らなかった」といった声をもらって驚きました。あれほどの大報道、大災害でも風化してしまうとは…。資料を集めた砂防みらい館が併設されるので、噴火を知らない人ほど見学して欲しいと思います。どちらも無料です。
この範囲にはかつて人家や田畑がありました。砂防工事は今も続けられています。