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近鉄から見えた東大阪市旧荒川庁舎は70年前、病院だった | TabiKen -旅とビルと建築と-

近鉄から見えた東大阪市旧荒川庁舎は70年前、病院だった

近鉄電車に揺られて奈良〜難波間を行き来した際、必ず目に入ってきた東大阪市旧荒川庁舎。河内永和駅そばに立つ古びた建物ですが、これが戦後まもない頃、布施市民病院として建てられたと知る人は少なかったでしょう。

といっても私がその来歴を知ったのも取り壊し目前。皮肉にも再開発に向けて市から参考資料が出たためでした。

建物について「昭和26年以前の竣工」と記述されます。「以前」が気になりますが当時の空撮写真、そして市立東大阪医療センター(旧布施市民病院)の沿革から判断するに、遡ったとしても1〜2年程度と思われます。それらをふまえ、建物の歴史をまとめました。

  • 【昭和24年】布施市民病院が布施市永和1丁目に開院(布施社会保険病院併設)
  • 【昭和26年頃】建物を新築
  • 【昭和26年】病院が布施市荒川3丁目に移転
  • 【昭和33年】病院が布施市御厨南に移転。建物は以降、市の庁舎となり水道局営業所等を経て、教育委員会事務局等が使用
  • 【平成15年】総合庁舎整備により、教育委員会事務局が退去。その後はPCB廃棄物保管場所及び倉庫用途
  • 【平成30年】併設のプレハブ建物に入っていた組織含め全て退去 
  • 【令和元年】公募型プロポーザルによって東急インによるホテル開発が決定

元病院だったと考えると見る目も変わってきます。屋上から1階に届くスロープは患者の避難用通路。換気扇と出入り口が連続する3階は、細かく分けられた病室だったと推測できます。堺工業地帯から流れてきた煙が生駒山に当たって滞留するため、周辺には喘息患者が多かったそう。

旧東京逓信病院(画像出典:Wikipedia

スロープは10年ほど早く完成した旧東京逓信病院(設計:山田守)でも確認できるので当時の主流だったのかもしれません。

もうひとつの特徴、階段室の曲線と合わせると「こちらも山田守かな?」となりそうなものですが、調べた結果は☓。彼の作品集にそれらしき名前は見当たりませんでした。

山田守はほかにも多数の病院を手がけており、大阪でも大阪厚生年金病院などが彼の手によるものでした。

昭和33年、布施市民病院が別に場所に新築移転した際は「主管:布施市建築部、設計監理:建材設計工」で建てられ、建物と並行に伸びるスロープが付けられていました

正面玄関。庇を支える細い柱がちょっとおもしろい。

ガラス越しに覗き込むと、またしても曲面がありました。

玄関横の木造建物。

近鉄の車窓から。病院時代には屋上に洗濯物がはためいていたかもしれません。「東大阪市」の横にはうっすら「教育委員会」の文字跡が残っています。

建物は令和3年に解体完了。併設のプレハブが先に撤去された段階で、スロープが上から下まで丸見えになっていた期間がありました。写真に残せなかったのが悔やまれます。