原爆は間接的な犠牲者も生みました。京都大学から診療・研究のため広島に派遣された11名です。廿日市市の宮浜温泉の片隅に、彼らを追悼するモニュメントが立っています。
どんな経緯で彼らが亡くなったのか現地にある『記念碑の由来』の前半部分を書き出します。
昭和20年8月6日広島に原子爆弾が原子爆弾が投下され多くの人々が被爆した。当時大野村ではこの地に隣接して約800人を収容する大野陸軍病院がありその中央の病棟に約100人、また国民学校に1500人の被爆者が収容されていた。
8月27日中国軍管区司令部から原爆被爆者災害の調査と早急なる対策樹立のために研究員派遣の要請を受けた京都大学は直ちに医学部の教授陣を中心とし、理学部物理学者を加えた研究班を組織して来広した。9月3日からこの大野陸軍病院に本拠を置き、診療・研究を開始した。ところが9月17日この地方を枕崎台風が襲い、同夜10時30分頃、山津波が起り、一瞬にして大野陸軍病院の中央部を壊滅させ山陽本線を越えて海中に押し流した。
このため同病院に入院中の被爆者の殆ど全員と職員合計156人の尊い生命が奪われた。この中には日夜原爆への対策、調査、研究に献身した京大真下俊一教授(内科学)、杉山繁輝教授(病理学)以下研究班11人の殉職者が含まれていた。
昭和45年9月にこの記念碑が建立され、碑文と京大関係殉職者11人の名前が碑の中央部にはめ込んである。
記念碑建立は京都大学関係者の悲願でした。調査班の一員だった菊池武彦教授らの尽力により遭難の25年後、1970年にようやく完成にこぎつけます。
京都大学教授の地位にあった増田友也に制作が依頼され、その指導のもと、前田忠直氏(京大名誉教授、当時おそらく院生)が設計を担当します。前田氏は京大増田研究室の中心メンバーで、のちに増田友也の代表作「鳴門文化会館」といった作品の設計チーフもつとめています。
遭難地に近い海沿いで計画されていましたが、土地問題で頓挫したため、米山広場に場所を変えて着工します。施工は広島の砂原組。その趣旨と資金難を理解し、安価で工事を引き受けてくれたといいます。
4枚のコンクリートの壁が4方向から立ち上がり、中心の一点へ。
垂直的な力強い造形は、大地から天に向けて舞い上がる人間の復活を象徴しており、京都大学関係者を含め、犠牲者の方々の追悼と恒久平和への祈りを表している。
設計意図について『記念碑の由来』ではこのように説明されています。
クイッと。増田建築の特徴はモニュメントにも現れていました。
4枚の壁が集まる中心部、遭難された京大関係者11名の名前が刻まれます。千羽鶴の色彩が目にしみました。
京大原爆災害調査班遭難記念碑
昭和二〇年九月一七日夜京都大学原子爆弾災害調査研究班この地大野陸軍病院において山津波に会い左の十一名職に殉ず
医学部
教授 眞下俊一
教授 杉山繁輝
助教授 大久保忠雄
講師 島本光顕
講師 西山眞正
嘱託 島谷きよ
学生 原祝之
学生 平田耕造
理学部
講師 堀重太郎
大学院学生 花谷暉一
化学研究所
助手 村尾誠
昭和四十五年九月十七日
京都大学原爆災害調査班遭難記念碑建立事業会
京都大学総長 前田敏男 書