大阪の新歌舞伎座(村野藤吾,1958年)の屋根に載っていた彫刻家・辻晋堂による鬼瓦。ホテルへの建て替えによって屋根から地上に移り、今は至近距離で見られるようになっています。
旧・新歌舞伎座の外観を模したホテルロイヤルクラシック大阪
その1階中央付近に空いた駐車場出口の奥に、鬼瓦はあります。車の案内係の方がいらっしゃるので一声かけて見学させてもらいましょう。
ホテル外観は旧建物の再現ですが、鬼瓦は紛れもなく本物。歌舞伎十八番の「暫」(しばらく)と「嫐」(うわなり)の隈取をモチーフとした高さ3mの銅板彫刻です。
辻晋堂 略歴
1910年 鳥取取県日野郡二部で誕生
1931年 上京。約一年間洋画を学ぶ。独学で彫刻を始める。
1933年 第20回日本美術院展に石膏 [千家元麿氏像] を出品初入選。以後入選を続ける。
1935年 日本美術院院友に推挙される。この頃から木彫に本格的に取り組む。
1938年 得度して晋堂と改名
1942年 第29回院展で [詩人大伴家持試作] 第一賞を受け, 異例の若さで日本美術院同人に推挙される。
1949年 京都市立美術専門学校教授となる。翌年市立美術大学となり彫刻科助教授となる。この頃から作風は抽象化し陶彫に取り組む。
1955年 京都市立美術大学彫刻科教授となる。
1957年 第4回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品。
1958年 第29回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に出品。グッゲンハイム美術館における七人の彫刻家・彫刻とドローイング展に出品。
1961年 アメリカ ピッツバーグのカーネギー国際美術展に出品。以後海外の美術展にたびたび出品。
1976年 同学定年退職 名誉教授。
1977年 京都市文化功労者。
1981年 京都市東山区の自宅にて死去。71歳出典:「辻晋堂と彫刻」略年譜(一部抜粋)
作風が写実から抽象に移り変わり、その異才っぷりが加速するのが1950年代。1958年の新歌舞伎座の建設の頃は、国際的な美術展に出品するなど、グローバルな活躍を見せていました。
村野藤吾が辻晋堂と協働したのはおそらく新歌舞伎座が最初です。鬼瓦の出来映えに満足したのか以後、横浜市庁舎、米子市公会堂、日生劇場などでも作品を依頼しています。
「暫」は市川流が得意とする荒事の代表的演目。力強い隈取は特に「筋隈」と呼ばれます。
「嫐」は公演回数が少ないようで、画像検索してもどんな隈取かイマイチわからなかったのですが「嫉妬に狂う女性を描いた演目」と聞くとなるほどと思えてくる造形。
2本の筋が涙のようになっているのは偶然でしょうか。
敷地外の路地からは彫刻裏側を見ることも可能です。
最後は、鬼瓦が新歌舞伎座の屋根を飾っていた2013年の写真を。
東西の千鳥破風の上に「暫」、南北に「嫐」の鬼瓦がありました。一対ずつ計4つ。残り2つもどこかで余生を送っていたら嬉しいですね。