2017年7月、大阪にある「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に推薦されることが決まりました。
墳丘長486mの「仁徳陵古墳」(大仙古墳)や同425mの「応神陵古墳」を筆頭に約50基で構成される古墳群ですが、そのうちの一つに橋の痕跡が残る「いたすけ古墳」があります。
いたすけ古墳は周囲を幅30mの濠で囲まれた5世紀中頃の前方後円墳。墳丘長は146mと、百舌鳥古墳群の中で8番目の大きさを誇ります。写真は史跡指定の石碑、公園などがある「正面」側。一見普通の古墳です。
一方の「裏」側。満々と水をたたえた濠の中程、古墳に似つかわしくないものが目に飛び込んできます。
朽ちたコンクリートの橋です。
GoogleMapの航空写真にもバッチリ写っています。
古墳と対岸とを繋ぐ橋が何のために架けられたか。
ざっくり言ってしまうと“古墳を壊すため”です。
昭和30年代初め、この「いたすけ古墳」を平らにして宅地を造成する計画がありました。墳丘の土砂を運び出すため、橋が架けられたのです。
当時、古墳の破壊は珍しくありませんでした。ある文献で専門家が「保存が望みだけど民間業者の営利活動を止めるのも理不尽で可哀想」的な事を記していました。今では考えられませんが、そんな価値観の時代です。
百舌鳥古墳群だけでも、かつて100基以上の古墳がありました。しかし、急速に進んだ宅地化の影響などで半数以上が消失。この橋が架けられたのと同時期、近隣の大塚山古墳(墳丘長168m)もその波に飲まれ、姿を消しています。
いたすけ古墳も同様の運命を辿るはずでした。しかし、ここで新たな動きが生まれます。古墳の破壊を憂いた同志社大学の若い教授、学生が中心となって、保存運動を展開したのです。
文化財がいとも簡単に壊されていくことに疑問をもっていた人も多かったのでしょう。
保存運動は市民や三笠宮崇仁親王(←戦時中にあって戦争に異を唱えた気骨ある御仁。先日亡くなられました)の後押しを受け、大きなうねりとなりました。世論の盛り上がりに堺市はいたすけ古墳の買い取りを決定。すんでのところで破壊を免れたのです。
市民をまきこんだこの動きは、全国の文化財保護運動の先駆けとして知られます。いたすけ古墳の事例が無ければもっと多くの古墳が失われていたに違いありません。
宅地化の計画は消えましたが、橋は残りました。何十年も風雨にさらされ続けたことで、木は腐食し、橋桁は重さに耐えきれずに崩落しています。野趣あふれる姿が見られるのもそう長くないかもしれません。
不思議と美しいこの光景。朽ちた橋は負の遺産であり、保存を勝ち得たモニュメントでもあるのです。