弧を描く宿泊棟とそれに連なる本館棟。明らかに叡山ホテル(設計:村野藤吾)の配置ですが、この航空写真が写しているのは比叡山ではなく京都府城陽市寺田。撮影日時はホテル廃業5年後となる1948年。つまり、叡山ホテルの移築後の姿なのです。※航空写真は全て地図・空中写真閲覧サービス(国土地理院)より
私が叡山ホテルの移築先を知ったのは長谷川堯先生の著書「村野藤吾の建築 昭和・戦前」においてです。移築先は別の場所と記憶していたので大変驚いたのですが、長谷川堯先生も興味深いエピソードとともに、それを知った経緯を書かれています。
● 建築界隈で話題になっていた移築説「叡山ホテル→鈴鹿海軍航空隊将校集会所→志摩観光ホテル 」をメディアで紹介 ※3建築とも村野藤吾の設計
● 移築説を目にした京都の郷土史家から情報提供。移築先は城陽市寺田で、軍需工場の島津製作所寺田工場の寄宿舎に転用された等々
● 長谷川堯先生は同封された写真・資料等を検証し、寄宿舎=叡山ホテルとほぼ断定
米軍撮影の「航空写真」の拡大コピーの寄宿舎の屋根などを見ると、その建物が紛れもなく比叡山から運ばれて、それも原型にかなり忠実に再築されたものであることは誰もが認めざるを得ない事実と思えた
村野藤吾の建築 昭和・戦前
残念なことに画像その他の資料は未掲載。そこで、該当エリアの1948年の航空写真を調べたところ、冒頭の画像が見つかったのです。長谷川堯先生もきっとこれに似た航空写真をご覧になったのでしょう。
島津製作所寺田工場についても簡単に調査。この工場、島津製作所の公式HP等には全く登場しません。
水度神社参道の北側にあった寺田野球場・寺田ラグビー場が工場の建設地となりました。城陽市史によれば昭和19年6月以降に着工したものの、大半が未完成のまま終戦を迎えたであろうとのこと。1948年の航空写真でも、本工場以外に目立った建物はありません。
航空写真と構想図を見比べると、いくつか相違点が見られます。構想図では寄宿舎は3棟分棟型で描かれており、叡山ホテル移築を想定していなかったことがわかります。また、本工場東側に附属建物らしきものが集積。寄宿舎から工場に至る道路(通勤路?)も新設されているので、敷地入り口が東側にも設けられた可能性がありそうです。
ここがまさに寄宿舎(旧叡山ホテル)があった場所。整然とした住宅地が広がっており、建物の痕跡は全く見当たりません。
通勤路(?)は現役。工場跡地に向かってみます。
わずかにカーブするのは当時と同じ。本工場建屋が正面に聳えていたはず。
急にすぼまる道は工場時代の名残。左のカーブが野球場ホームベース側、扇の要部分だったと思われます。
島津製作所寺田工場は戦後、京都府立城南農工場や引揚者施設となったのちに解体。1956年、その跡地に城陽中学校が建てられました。寄宿舎は城南荘と呼ばれるようになり、引揚者も利用したとか。1956年の航空写真ではまだ写っていますが1960年には更地になっています。
そうか…叡山ホテルは完全に消えてしまったんだな…となりそうなところ、長谷川堯先生は提供された資料をもとに推論を重ね、志摩観光ホテルに一部転用された可能性を探られます。十分な説得力をもつお話なので、詳しくは「村野藤吾の建築 昭和・戦前」を読んでいただけたらと思います。